きみが帰ったらへやががらんとしちゃったよ。

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今朝、ルームメイトが退寮した。夜も明けやらぬ時間の出来事だったので、起きたら彼はそこにはいなかった。それはまるで「さようならドラえもん」のように。正確には僕と同じく友達のアパートへの移動なので帰ったわけではない。が、とにかく彼は一足早くここを去った。
二人部屋に僕は一人となった。空間の半分が死んでしまったような不思議な違和感と、一抹のさびしさがこみ上げる。今日の夜は僕ひとり。夏からずっとそこにいた人はもういない。
ルームメイト。それはほとんどの学生が寮に住むアメリカの大学生活を語る上において欠かすことのできないキーワードだ。生まれた場所も、受けてきた教育も、話す言葉も違う二人がある日を境に同じ屋根の下、同じ部屋で生活する。僕にとって、これはいろいろな意味でとても新鮮な経験になった。
僕のルームメイトはまじめな韓国人の男の子だった。いたって平和で楽しい日々を過ごせたとは思うが、そこに価値観の差異を感じなかったといえばうそになる。悪気がないことは容易に想像できるものの、たしかにいくつか理解できない言動があった。しかしそれは彼にしても同じことだったように思う。(結果として、おそらく)良かったのはお互いにストレートに不満をぶつけるということを、最後まで「しない」という選択をすることができたことだ。人と人との関係において、ひとつ踏み込んだ関係になるためには価値観の激しい衝突は不可避だ。ただ、その前には必ず「言ったらそれで終わりの関係」になるか「言ってこそお互いがより理解できる関係」になるかの判断が必要になる。
新しいコミュニティにおける人間関係は往々にして最初はみなゆるやかに、やわらかい空気をもってして始まる。しかし、時間が経つにつれ理解し合える人間とし合えない人間というものの温度差が生まれる。その温度差はしばしばコミュニティ全体の関係を硬く変えられないもの、決して良い方向に戻すことのできないものにしてしまう。コミュニティの鮮度を奪うといってもいい。そして腐った野菜がそうであるように、一度奪われた鮮度は元に戻すことはできない。人はお互いを尊敬できなくなったとき、同じ空間に存在することに価値を見出せなくなる。これは二人であっても多数であっても全く同じことだ。構成員である人々が互いに尊敬することをやめたとき、そのコミュニティは死ぬ。
お互いの共有する時間が少なければ少ないほど、この互いに尊敬するという状態をキープするのは簡単だ。お互いの悪いところ、受容しがたい価値観の差異というものがみえてくる前の状態を続けることができるからだ。これはこれで悪い人間関係の形ではない。というよりほとんどの「良い人間関係」と呼ばれるものはこれだろう。
しかし共に過ごす時間が多くなればなるほど、ささいな価値観の差異やちょっとした誤解は決定的な「非尊敬心」へと繋がる悪魔の階段となる。一度その階段を登り始めてしまうと、お互いの心はひたすら冷め離れてゆく。そこにはもはやお互いを支えあえる暖かい関係は存在しない。同じところに存在する、それ以上でもそれ以下でもない関係になってしまうのだ。これほど悲しいものはない。しかし難しいことに、朝から夜まで同じ部屋で過ごすルームメイトという関係は、この悪魔の階段が非常に近いところにある。毎日決まった場所で会うだけならまだしも、やはり生活を共にするとなるとどうしても小さな価値観の差異を直視せざるを得ないのだ。
一つひとつは些細なことであっても、それが少しずつ溜まっていくのとともに生きるというのは非常に大きなストレスとなる。もちろん思ったことを素直にいうのが一番だが、「これは言うほどのことでもない」が繰り返されると時として気持ちを伝えることが非常に難しくなる。この積み重ねにどれだけ耐えられるか、もしくはそれを言うことによって生まれる先が見えるかが最終的に自分をぶつけるかどうかの境目となる。へたをすればその発言は相手の「非尊敬」を生み出してしまう。しかしもちろんより輝いた関係になれる可能性もある。この判断は非常に難しい。その場で冷静に考えれば考えるほど難しい。そして、それは時によって「正解がない」こともあるということも認識しなくてはいけない。これはそれぞれの文化的背景によるものだが、これがより一層自分の価値判断を惑わす。
結局僕は言わないで、ゆるやかな関係を続けることを選択した。これは、今になって改めて思うと、おそらく良い選択だった。最後までお互い挨拶をし、会話を楽しみ、自分のときを過ごし、という居心地のいい部屋で過ごすことができた。彼のことをまったく嫌いにはならなかったし、共に過ごした時間はとても居心地が良かった。穏やかな時間をくれたルームメイトには本当に感謝している。
<CELOPの寮生活>
ぐだぐだと抽象的な屁理屈ばかりを並べてしまったので具体的な話を。CELOPの学生で寮を希望する学生は基本的にだいたい同じ年齢のルームメイトと組み合わされる。ほとんどがCELOPの学生同士であるが、アメリカ人のルームメイトがいいなど希望した場合BUの学生と一緒になることもある。法政の国際文化学部からSAできている学生や早稲田の国際教養の学生はほとんどがそうだ。寮はいくつか種類があるが選ぶことはできない。キッチン、バス、トイレはフロアで共有。今回は例外的に人数が多かったため、多くはないが自分のように外部アパート寮を使う学生もいた。寮は常に管理人さんが学生証での入館管理をしているため、おそらく安全面では優れるものの普通のアパートの相場と比べて少し高い。しっかり探せば同じ値段かそれ以下で一人暮らしのアパートを探すこともできる。実際、そうしている学生も多くいる。ただ、フロアパーティなど横のつながりができるきっかけが多いという点は寮の大きなメリットだと思う。
実際の感覚としては「ルームメイトとうまくいっている」のは半数ほどだろう。アメリカの学生と暮らしている学生でとても仲が良いという学生は本当に一部しか知らない。中には入寮早々トラブル、以来ほとんど口をきかないというケースもある。これはBUの学生ももちろんそうで、アジア系の学生の「1年のときはアメリカ人のルームメイトと大変な目にあった」という話は事欠かない。ルームメイトを途中で変えた、という話もいくつか聞いた。もちろんすばらしい友に出会い何年にも渡って同じ仲間で住む学生もいる。少しでも近い文化背景を求めアジア系の学生を希望するか、全く新しい可能性を求めるかは自由だ。しかしラテン圏とアジア圏の文化の違いは大きい、と友達の相談などを聞くと思わざるを得ない。特に日本人はそういった免疫はないほうではないかと思うので、おすすめするかといえばちょっと考えてしまう。
ただ繰り返すがこれは「ルームメイト」という関係においてである。CELOPを通して世界中の人と知り合い、一生忘れられない・そして一生続くであろう人間関係をさまざまな文化圏の人と気づくことができた。しかし、ルームメイトという非常に密接した生活形態は時に不必要ないざこざを招く。僕にとって友達であるラテン系の友人も、その彼と一緒に暮らす僕の友達にとっては彼との生活は非常に耐えがたいストレスに満ちたものでしかないという。実際に話を聞いても、自分がその状況にいたら多くの複雑な葛藤が生まれるであろうと思った。少なくとも今とは違う関係になってしまうだろう。
なんしてもパンドラボックス、これを言ってしまったらおしまいだが本当に相性次第だと思う。ただルームメイトの問題はしばしばあるにしても、共に学校へ通い、ご飯を食べ、プールで泳ぎ、深夜まで図書館で勉強して帰宅。ときにはお互いの部屋で酒を飲む。これほど人の距離が近いコミュニティは日本ではなかなか経験ができない。一生の友に出会い、かつてないほど深い時を共に過ごす寮というシステムは本当におもしろいと思う。

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