思ったように伝えられないもどかしさに苦悶する日々です。言葉は出てくるんですが、どうも的外れで稚拙な表現しかできない。単語力・熟語力、そして発音の重みを改めて感じてます。とにかく最近は何かに追われるかのようにひたすら勉強です。
最近友人関係の中でも、それぞれの国の歴史からくる価値観の相違の埋めがたさなどを感じる出来事があったりして気持ちの重い日があります。たとえ個人と個人の関係であっても、違う国から生まれた価値観を背負っている事実。お互いのアイデンティティーの基礎となる国の教育には、その国の歴史・社会のひずみが血となり流れている。そしてこの血は、たとえ社会の多くが変えたいと望んでいても、簡単には変わらない。むずかしいです。
日本という国はほんとうにどこの国に対してもいい意味でも悪い意味でも(世界的にみれば比較的)中立で、また無関心だと思います。最近はインターネットで何でも知ることができるような気になってしまいますが、面と向かっての価値観の対峙から湧き上がる「自分は日本人」という意識は決してネット上からは感じることのできないものです。不条理を越えた切なさの感情が沸くこともあります。匿名の「言葉」と現実の「言葉」の重みはやはり違う。これは海外に来て初めてリアルに知ることのできるものです。
戦争がなくならない理由を肌で感じたような気がします。対話とかそういうレベルではない、本当に一朝一夕で解決できる問題ではないんだなと改めて思いました。気が重いです。もう人類がまとまるためには宇宙人がせめてくるのを待つしかないのかもしれない、と本気で思ってしまう。
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今日は部屋の大掃除の日でした。1ヶ月もいればさすがに厳しくなります。というか最初の掃除が中途半端だった。でるわでるわのホコリできりがない。コロコロが大活躍です。大変だったけど部屋がきれいになって気分もちょっとすっきり。ちなみに普通は部屋では靴で生活するんですが、僕たちはきれいに雑巾がけしてスリッパオンリーにしました。ルームメイトがアジア人でほんと良かった。
今日は夕方に新しいコンバセーションパートナーと会いました。金曜日に会っているコンバセーションパートナーの女の子も超すばらしいんですが、アメリカ人の希望に対して日本人が足りてないというオファーを受けたのと、男の子と知り合いになればもっと気兼ねなく話せるかもという思いから紹介してもらったのでした。
<日本語はすごい>
彼はボストン大の一年生で、日本がすきというよりも言語の勉強が楽しくて学んでいるとのことだった。中国語なども学んでいる彼曰く、日本語はいちばんおいしいとこどりの言語らしい。中国語から漢字という表意文字をもらいつつも、日本語の発音を全て表せるひらがなという表音文字を別に持ち、またカタカナという外来語を自由に(発音の正確性はともかく)表現できる手段をももつ。確かにこれはすごいことだ。
いま彼は必死に漢字ひとつひとつの意味と読みを覚えているというが、本当に大変そうだ。字そのものの複雑さもさることながら、発音も音読み訓読みがあり一筋縄ではいかない。
中でもとくに難しいのは熟語だ。すでに小学校時代から漢字を学んでいる僕たちにとっては、たとえ新しい熟語が出てきたとしても知っている漢字からイメージを感じることができるため、むしろ便利な存在だ。読みもフィーリングでだいたい感じ取れる。しかし外国語学習者にとってはこれほどやっかいなこともない。ひとつひとつ全く別の読みをもつ違った単語という認識しかできないからだ。漢字単体の意味と熟語のイメージを結びつけるには膨大なインプットが必要となる。日本人レベルの理解ができる脳内シナプスの形成には、英語の学習におけるボキャブラリーの蓄積とは比べ物にならないほど大変だろう。
彼は冗談まじりに「ほんとうに日本語を最初から話せる人はうらやましい。英語を後から学ぶほうがはるかに簡単だろう」と言っていた。英語は決して簡単ではないと思うけど、日本語の楽しさを教授していると、確かにちょっとそう思う。日本語独特の擬態語とか大好きだけど、学習者にとってはやっかいこの上ないだろう。
聞かれて困ったのは「八百屋がなんでvegetable storeなのか」という質問。考えたこともなかった。とりあえずたくさんあることのイメージとして「八百」を使っているとは伝えたけど、どこらへんが野菜を意味しているのかは説明できなかった。実際帰って調べてみたらいろんな説があるみたい。こりゃ難しい。
あと面白かったのが
「東京へ行くかわりに京都へ行きます」と
「東京へ行かないかわりに京都へ行きます」の
違いは何かという質問。びっくりした。
ちょっと混乱しつつも冷静に考えてみる。うん、違いはない。ただの言い回しだ。英語の直接的な意味を伝えて、ただそれだけの違いだと言ったら一応納得していた。さすが言語に興味持っているだけあって気にするところが面白い。
<英語を話すために大切なこと>
自分の発音をぶっちゃけどう感じる?と聞いたら「中国訛りで臆せず話す人たちよりは聞き取りやすい、ただやっぱり日本人ぽさがある」とのことだった。ではどこら辺が日本人ぽいのか?と聞いたら、イントネーションとシラブル(音節)のせいだと言われた。やっぱりというか、発音そのものではなかった。
これは英語を学ぶ日本人が往々にして見落としがちなことですが、実際の会話で「より理解してもらえる英語」を話すために大切なことは、発音そのものよりも、実はイントネーションだったりします。
日本語は高低で意味合いが変わる言語なので、アクセントという概念がありません。なので相当意識的に話さないとそれっぽくなりませんし、またその感覚が理解できないと簡単な単語も聞き取れません。
たとえばHow much is it?という文だったとして、極端なカタカナ英語だとハウマッチイズイットと抑揚なく話されたりします。もちろんハウマッチが聞こえれば通じないということはないと思いますが、この場合muchに文のアクセントが置かれis itはおまけのようにサラッと流れます。たいして重要ではないからです。重要なところにアクセントを置くというルールはどんなに長い文でも存在し、このアクセントの位置を間違えるとどんなに正確に発音をしていてもとたんにわけがわからなくなってしまいます。これぐらいの短い文であればそれほど問題にはなりませんが、ある程度長いセンテンスでノーイントネーションをやってしまうとほとんど理解してもらえないと思います。
また単語ごとのアクセントも重要です。たとえばフォトグラフィー(写真)をカタカナ英語で言ってしまったとしても、トにアクセントがしっかりとついていれば理解してもらえる可能性は高いですが、日本語読みのノーアクセントではほとんど無理でしょう。
ほかにも音の連結など重要ですが、とにもかくにも理解してもらえる英語を話すためにはまずイントネーションの意識をもつことが大切です。この改善のために、自分はとにかくシャドーイング(聞いた文を続けてしゃべる練習)を続けてます。
あともうひとつ日本人ぽいと言われたシラブルですが、これは偏にカタカナ発音のせいだと思います。完全に別のものとして捕らえることが大切ですが、なかなかこのしがらみから抜け出すのは大変です。
有名なマクドナルド。日本語では「Ma Ku Do Na Ru Do」の6シラブルですが、英語は「Mc、do、nald’s」の3シラブルです。アメリカ民謡で日本でもよく歌われている童謡に「一郎さんの牧場でイーアイ イーアイ オー」という歌がありますが、これは英語では「Old McDonald had a farm, E-I-E-I-O」と歌います。シラブルが正しくないと絶対できないですね。発音を常に母音で終える日本語ネイティブとって、この子音同士のつながりや子音で終わるというのは体がなかなか理解してくれない。本当に難しいと思います。
かくいう僕もアメリカにくるまでパソコンのマックとファーストフードのマック、同じ発音でアメリカンは混乱しないんだろうかなどと真剣に考えていたようなアホでした。精進あるのみです。
まさかアメリカに来て2週目にして英語で政治論議をするはめになるとは。
今日はボストン大に通う中国人の男の子に誘われて、彼の部屋でアキラ(大友克洋原作の映画版)を見た。中国人とは言っても高校からアメリカで暮らしているので英語はペラペラである。(しかも非常に明瞭で聞き取りやすい。)ほかに同じ寮に住む法政からSAで来ている男の子も一緒に楽しむ。
アキラは初見だったけども、示唆に富むディープな作品であった。ネオ東京という、巨大な力で破壊しつくされた現代東京のあとにつくられた人口都市を舞台にした近未来SFである。
鑑賞後、彼は開口一番「未来の日本みたいじゃないか」といった。「現在の日本もリセットが必要だ、ということを伝えたいんだと思う」というのが彼の考えだった。日本人はエヴァンゲリオンみたいなバーチャル世界を作り上げたりするのが得意だよなぁ、外国人こういうのほんと好きだよなぁ、なんて漠然と考えてた僕は目を覚ます。「え、なんで?」そしてそして、だんだんと政治的な話になっていくのだが、なんにしても彼の見識が非常に深い。
彼の専攻は国際関係学・政治学であり、特にアジア各国について詳しく、日本の歴史についても生半端の日本人学生よりよく知っている。島原の乱なんて言われるまで忘れていた。
彼が言うには、日本はBureaucracy(官僚主義的)な政治を一度捨てなければ永遠に今の悪循環(首相がころころ変わり何もできない)から抜け出せない。要するに自由民主党のやってきたやり方で、彼が考える改革にもっとも近いリーダーは小沢一郎氏だという。またどんなに政治手腕があろうと、こうまですぐにトップが変わっていては何もできないとも強く言っていた。(これは本当にそう思う。)アメリカはすぐには変えられないシステムになっているとのことで、確かに日本は民意のふらつきが直接的に影響しすぎてる気がする。
そんな話から、話題はアジアの将来の話へ。彼は中国や韓国のプロパガンダ的な反日教育の悪い側面をしっかり見つめつつも、なおもまずは日本の謝罪がアジア協調のためには必要なのではと考えているとのことだった。正直、自分も含め日本人は中国や韓国の人々に比べて謝罪の必要性というよりも謝罪そのもの、ひいては過去の歴史問題そのものについて深く興味をもっていない。竹島問題しかりであるが、靖国参拝になぜあれほど中国や韓国が反発するのか、そしてなぜなおも日本として戦犯といわれる人たちを祭り続けなければならないかを真剣に考えたことのある日本人がどれほどいるだろう。ここにある温度差をどう捕らえるか。
正直、自分としては政治的および経済影響的な意味での謝罪の必要性は感じない。そもそも判断に足るほどの知識をしっかりと持っていないのは事実であるが、民間レベルでの経済協力その他に及ぼす影響は数十年というスパンではほとんどないと思うからである。もちろん他国に及ぼしてきた自国の歴史について著しく関心が低いことは、人と人との協力関係にあって悪い影響しかないであろうから、まず改善せねばならないとは思う。ただそのスタートに謝罪は位置しないと考える。(人と人との感情という観点からの問題解決を目指した場合、謝罪の意味を現実に照らし考え直し、そのほかの手段も含めて少しでも歩み寄れるような解決策を一人でも多くの人が考えていかなければならないとは強く思うが)
僕は今まで個と個の人間関係と歴史問題・国のスタンスは完全に別というような漠然とした考えを持っていた。それはおおよその場面では当てはまる。しかし議論をしているとやはり日本人としての誇りというか、国としての歴史にはぐくまれた価値観を背負って話していることに気づく。それは相手も同じことなのだ。国際化する社会で生きる以上、自分自身の十分な知識に基づく国際的スタンスが求められる。こっちに来て2週間、アメリカに対してどうか。USの人々はみな暖かい人々ばかりである。開放的、寛大な人柄はとても好きだ。しかし国家としてのアメリカに対してどう思うかという問いに、傲慢というイメージは拭い去れず、正直一貫したスタンスを保てる自信はまだない。
彼は江戸幕府や明治政府の政策だけでなく学生運動までも知っており、過去の歴史を通して今の日本のあるべき姿、目指すべき未来を自分の視点で熱く語っていた。中国の高齢化問題などは自分にとって新しい知識であった。このままの閉鎖的な意識では日本はいずれ大きな壁にぶつかる、というのは同意見である。国民が本当に、国際化の真の意味を考える時期にきているだろう。しかし、ひいては中国、アジア全体のため何をすべきかを真剣に考える彼の姿に、専攻が違うとはいえ自分の知識のなさになんとも恥ずかしさを感じてしまった。
そして何よりも英語力。言いたいことが伝えられないもどかしさ。議論するにまったく足らない自分の実力にはほんとにがっかりした。明日からCELOPのビジネスクラスが始まる。がんばらねば!
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