まさかアメリカに来て2週目にして英語で政治論議をするはめになるとは。
今日はボストン大に通う中国人の男の子に誘われて、彼の部屋でアキラ(大友克洋原作の映画版)を見た。中国人とは言っても高校からアメリカで暮らしているので英語はペラペラである。(しかも非常に明瞭で聞き取りやすい。)ほかに同じ寮に住む法政からSAで来ている男の子も一緒に楽しむ。
アキラは初見だったけども、示唆に富むディープな作品であった。ネオ東京という、巨大な力で破壊しつくされた現代東京のあとにつくられた人口都市を舞台にした近未来SFである。
鑑賞後、彼は開口一番「未来の日本みたいじゃないか」といった。「現在の日本もリセットが必要だ、ということを伝えたいんだと思う」というのが彼の考えだった。日本人はエヴァンゲリオンみたいなバーチャル世界を作り上げたりするのが得意だよなぁ、外国人こういうのほんと好きだよなぁ、なんて漠然と考えてた僕は目を覚ます。「え、なんで?」そしてそして、だんだんと政治的な話になっていくのだが、なんにしても彼の見識が非常に深い。
彼の専攻は国際関係学・政治学であり、特にアジア各国について詳しく、日本の歴史についても生半端の日本人学生よりよく知っている。島原の乱なんて言われるまで忘れていた。
彼が言うには、日本はBureaucracy(官僚主義的)な政治を一度捨てなければ永遠に今の悪循環(首相がころころ変わり何もできない)から抜け出せない。要するに自由民主党のやってきたやり方で、彼が考える改革にもっとも近いリーダーは小沢一郎氏だという。またどんなに政治手腕があろうと、こうまですぐにトップが変わっていては何もできないとも強く言っていた。(これは本当にそう思う。)アメリカはすぐには変えられないシステムになっているとのことで、確かに日本は民意のふらつきが直接的に影響しすぎてる気がする。
そんな話から、話題はアジアの将来の話へ。彼は中国や韓国のプロパガンダ的な反日教育の悪い側面をしっかり見つめつつも、なおもまずは日本の謝罪がアジア協調のためには必要なのではと考えているとのことだった。正直、自分も含め日本人は中国や韓国の人々に比べて謝罪の必要性というよりも謝罪そのもの、ひいては過去の歴史問題そのものについて深く興味をもっていない。竹島問題しかりであるが、靖国参拝になぜあれほど中国や韓国が反発するのか、そしてなぜなおも日本として戦犯といわれる人たちを祭り続けなければならないかを真剣に考えたことのある日本人がどれほどいるだろう。ここにある温度差をどう捕らえるか。
正直、自分としては政治的および経済影響的な意味での謝罪の必要性は感じない。そもそも判断に足るほどの知識をしっかりと持っていないのは事実であるが、民間レベルでの経済協力その他に及ぼす影響は数十年というスパンではほとんどないと思うからである。もちろん他国に及ぼしてきた自国の歴史について著しく関心が低いことは、人と人との協力関係にあって悪い影響しかないであろうから、まず改善せねばならないとは思う。ただそのスタートに謝罪は位置しないと考える。(人と人との感情という観点からの問題解決を目指した場合、謝罪の意味を現実に照らし考え直し、そのほかの手段も含めて少しでも歩み寄れるような解決策を一人でも多くの人が考えていかなければならないとは強く思うが)
僕は今まで個と個の人間関係と歴史問題・国のスタンスは完全に別というような漠然とした考えを持っていた。それはおおよその場面では当てはまる。しかし議論をしているとやはり日本人としての誇りというか、国としての歴史にはぐくまれた価値観を背負って話していることに気づく。それは相手も同じことなのだ。国際化する社会で生きる以上、自分自身の十分な知識に基づく国際的スタンスが求められる。こっちに来て2週間、アメリカに対してどうか。USの人々はみな暖かい人々ばかりである。開放的、寛大な人柄はとても好きだ。しかし国家としてのアメリカに対してどう思うかという問いに、傲慢というイメージは拭い去れず、正直一貫したスタンスを保てる自信はまだない。
彼は江戸幕府や明治政府の政策だけでなく学生運動までも知っており、過去の歴史を通して今の日本のあるべき姿、目指すべき未来を自分の視点で熱く語っていた。中国の高齢化問題などは自分にとって新しい知識であった。このままの閉鎖的な意識では日本はいずれ大きな壁にぶつかる、というのは同意見である。国民が本当に、国際化の真の意味を考える時期にきているだろう。しかし、ひいては中国、アジア全体のため何をすべきかを真剣に考える彼の姿に、専攻が違うとはいえ自分の知識のなさになんとも恥ずかしさを感じてしまった。
そして何よりも英語力。言いたいことが伝えられないもどかしさ。議論するにまったく足らない自分の実力にはほんとにがっかりした。明日からCELOPのビジネスクラスが始まる。がんばらねば!
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星座のひとつひとつにあるストーリーを知るとほんとにそう思う。誰がいけにえにされたとか、不死性を分け与えたとか、嫉妬してうんたらとか・・しかもそれぞれがうまく絡まりあってるからすごい。今に残る神話のほとんどは古代ギリシア時代のもの。想像力に関心するというより、紀元前からそんな暇をもてあます生活していたことにびっくりする。
・・そんだけ階級化が進んでいたということだろうか。そう考えると、平民の僕たちが自由に星を見る時間があるというのは、時代がくれたすばらしいことなのかもしれない。たまにはゆっくり星でもみてみよう。
近所の魚屋さんが閉店した。おそらくおじいさんが年だからだろう。
気づいたら、近所の駄菓子屋や豆腐屋もいつのまにか閉まっていた。中学ぐらいまではなんだかんだでたまに使っていたし、小学生がたまったりしているのも見ていたから、漠然とその光景はいつまでも続くようなイメージをもってたんだと思う。当たり前だった場所がなくなる、それも気づかないうちに、というのはすごく切ない。
今の子は駄菓子屋にたまったりしないのかな?
デパートのおもちゃフロアも気がつけばどんどん縮小されていっている。むかしの吉祥寺伊勢丹や東急はほんとに広くて、何時間でも楽しめるそれはそれは素敵な空間だった。売り場が小さくなっていくだけでもかなしかったのに、挙句の果てに伊勢丹はつぶれてしまった。。少子化でおもちゃ市場も年々縮小傾向だから仕方ないんだけど、いつかまた活気のある空間を復活できたらいいなあ。屋上のミニ遊園地とかね。
何を調べるのにもインターネットが当たり前の時代になってきたが、数年前に比べ有益な情報にたどり着くのが本当に難しくなってきた。ブログの増大がその大きな理由なのだが、最近その発信年代による選別の難しさというのをすごく感じる。
ちょっと前まで、いわゆるテキスト系サイトのブームがきた2000年前後あたりは目的の情報まで比較的楽にたどり着くことができた。そのころのヤフー検索では、自分のキーワードを含むディレクトリ分類された登録サイトがまず検索結果として表示され、すなわちそれらは一定の情報レベルを満たしていると言えるものであった。なかなか深い情報に辿り着けないということはあったが、それでも比較的楽に情報収集ができたと思う。
最近は相当にキーワードを絞り込んだり、言い回しを工夫しないと目的の情報に辿り着けない。というかあまりにもどうでもいい情報が多すぎるのだ。これは個人ブログと、広告サイト(アフィリエイトを目的をしたものなど)の爆発的な増大が原因だ。しかもそれらの情報の方がテキストサイトなどより検索で上位に来やすい。しかしながら、それらは検索エンジンの進化と検索テクニックの工夫で、ある程度ふるい落とすことができる。ブログという情報源の有益さは自身も認めるところであるが、最近本当に問題だと思うのは、劣化した情報が加速度的にひたすら増え続けていることと、それらが検索において同じプライオリティでネット上に存在するという事実だ。
これはブログだけでなくネット上のニュースサイトでもそうなのだが、苦労して調べてたどり着いた情報が、ソースをよく見ると2005年であったりする。興味をもって見ていたらとっくに販売終了した商品だったり、もう閉店したお店の情報だったり、古いソフトウェアの情報であったりすることがままあるのだ。もちろん求める情報の種類によっては、その発信年代に左右されない普遍性のあるものであったり、過去の情報であるからこそ意味があるものも多い。しかし問題は、そのどちらの種類の情報であっても、キーワードの一致とそのリンク数などといった同じ条件に基づいて検索エンジンで結果として吐き出されることだ。
個人ブログがブームになりはじめた一昨年あたりまでは、こういった問題をそれほど感じなかった。しかし最近、化石と化したブログや古いソースの情報がネット上に放置され、それらが本当に今欲しい情報を手に入れる大きな妨げになっている気がしてならない。危惧すべきは、メディアリテラシー能力の低い小・中学生などが、こうした古い情報をその古さを認識せず鵜呑みにして振り回されてしまうことだ。本や新聞などの活字情報は古くなると物理的に人の探索範囲から離れ、埋もれていくが、ネット上の電子情報はそのようなことがない。古い情報もヒットし続ければ、その探索範囲の上澄みに存在し続けるのだ。これはネットの良い面でもあり悪い面でもあるだろう。
個々人が情報発信者となったいま、有益な情報とそうでない情報を見分けることを個人のメディアリテラシー能力の向上に期待する向きがほとんどだが、このペースで増え続けていけば、いずれ人のリテラシー能力のキャパシティを越えてしまうような気もする。まずは作成・更新の時期による情報管理・検索システムの構築を期待したい。
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