電車の中での通話について

つまらないこと書きます。
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なんで電車の中って通話しちゃだめなんでしょうか?

ちなみに携帯の電波はペースメーカーなどの動作に影響を起こさないことが総務省の調査結果によって発表されているので、その視点からの是非は別問題とさせてください。
カナダに来てまでこんなことを思ったのは、こっちの人はハンズフリーで話している人が多く、もう全くナチュラルにそれぞれがひとりごとのように会話をしてるんですね。バスとかで。
もともと僕は「みんなで通話をしないというルールを守ることによって得られるメリット<お互いに必要なときは気にせず使えるメリット」だと考えていました。大声で話す人が迷惑というのはわかるのですが、それを注意するために必要最低限の着信ですら「車内だから・・・」と気を遣わなければいけない状況をみると、なんだかルールのためのルールのような気がして・・・。とても不合理だと感じます。特に「ルールだから」という理由だけで「自分自身は迷惑だと思っていない」のに注意する人とかみると、本当にそう思ってしまいます。もちろん相手が見えない状況で誰かが話しているという状況は心地よいものではないという心理もわかるので、気遣いはある程度必要だとは思います。
今回改めて思ったのは、いったい何が迷惑なのだろう、という一点についての疑問です。
ハンズフリーの通話においては、ぱっと見は本当にぶつぶつ独り言を言っているだけのようにも見えます。しかしそれは車内においてワイワイ会話をしている人と何が違うのかというと、単純に相手がいないというだけです。では、これは今日みたシチュエーションでもあるのですが、ハンズフリーで話す人の会話を聞いてうなずく友人が隣にいたら許されるのでしょうか。おそらく日本でやっても注意されるだけでしょう。では、スピーカーホンにして相手の声を聞こえるようにするというアイデアはどうでしょうか。これはヘッドホンの音漏れすら注意されるのですから、まったくだめです。そう考えると、理由は「相手が見えない状況で話しているのが気持ち悪い」という感情的な理由ただひとつになります。
この理由による車内通話の禁止は、「車内通話を禁止することによってこうむるデメリット」を相殺させるほどのことなのかと改めて考えてしまいます。僕の考えとしては、とくに迷惑なほど大音量で話す人などのケースに対してのみ個別に注意すればいいと感じるのですが、そういうケースにならないようにあらかじめルールを作ってしまうのがいかにも日本的な考えだなと思います。ルールがあればそれを建前に注意できますからね。これはルールがなければ何をしてもいいと考える一部の日本人にも責任があるのかもしれません。
アメリカでは輪行もペットの車内への持ち込みも当たり前に見られる光景です。それぞれが配慮の上でケースバイケースに対応し、迷惑な状況になったら注意したり降りたりして問題はおきていません。しかし日本では早々とルールとして禁止されています。来る迷惑を予想しあらかじめすべて禁止することで、問題を避け、ルールを盾に秩序が守られることをよしとする。なんとも日本人らしい、しかし柔軟性がない、と思ってしまいます。
もちろん日本にいる以上、郷に入れば郷に従えの考えでルールは守っていきたいと思っていますが、なんとも窮屈な社会になってしまったようで残念な気がしてなりません。

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